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イベントレポート

「建築のすそ野を広げたい」という想いで設立された編集事務所Office Bungaの磯達雄さんの視点から、展覧会をより深く楽しむのに役立つ情報をお届けします。

今回は、山田紗子展に合わせて開催しているギャラリートーク「parallel dialogues パラレル・ダイアローグス」の様子をレポートしていただきます。第1回は「つくることと考えること」と題し、山田紗子さんと日頃より対話を重ねる同世代の渡邉康太郎さんと近内悠太さんをお迎えしたトークです。第2回は「これからの建築について」、平田晃久さんとおふたりで徹底的に語り合っていただきました。

ギャラリートーク「parallel dialogues パラレル・ダイアローグス」イベントレポート1

第1回「つくることと考えること」

渡邉康太郎(Takramコンテクストデザイナー・東北芸術工科大学客員教授)×近内悠太(教育者・哲学研究者)×山田紗子

近内――展示を見て、山田さんの眼差しは、風景の中に入り込んで見ている、といえばいいのかな、外から見ているのではなく内側に入り込んで眺めているものを報告しようとしている、そんなふうに感じました。

渡邉――展覧会に合わせて刊行された書籍『パラレル・チューンズ 山田紗子作品集』の中の対談でも、西沢立衛さんが、模型を覗き込んでるイメージと表現しています。「俯瞰する神」の目線ではない。一人称の視点から広がる世界で何かが立ち上がってくる瞬間を待つみたいな、そんなイメージを僕も持ちました。まず聞きたいんですけど、つくるプロセスにおいては、コンセプトみたいなものを定めるんですか。

山田――コンセプトを立てるかというと、立てませんね。コンセプトと別にヴィジョンというのもあって、どう違うかというと、私の中でのイメージではコンセプトは物としてある。ヴィジョンというのは眼差しだけ。 方向性というか、私はこうこういうものがあったらいいという価値観。私にはヴィジョンはあるんですけど、「こういうコンセプトでつくります」というのは言いづらい。

近内――確かにコンセプトというと、輪郭がはっきりとした、自立したもののような感じがします。それに対して、もう少しモヤっとした夢のようなもの、それをヴィジョンとおっしゃったのかなと感じましたが、それでいうと僕自身は「モチーフ」という言い方をします。僕も本を書いている時に「どういうコンセプトの本ですか」と訊かれて、説明ができない。そんな明示的なメッセージは書いてみないとわからないですよ。というか、作品はできあがってからしかるべき時間を経てその輪郭が顕わになっていくんじゃないでしょうか。

渡邉――コンセプトの語の動詞形はconceiveで、それには受胎するという意味もあります。だから何かを生み出す手前で、卵のような何かを暖めているようなイメージなのかもしれない。ヴィジョンという言葉を考えると、一般的には神たる作者が何か超越的な映像を垣間見てそこからものをつくるという捉え方だと思うけど、山田さんが言っているヴィジョンは、どちらかというと一人称の個人による体験を元にしているように聞こえました。

山田――その時の自分の目線でしか判断できないんです。スタッフと模型をつくりながら、屋根の形は丸か四角か三角かみたいな検討しているときに、周辺との関係や用途で「これは丸がいい」という判断はできる。でも「このプロジェクトのコンセプトはこれで、そのコンセプトによればこの屋根は丸でなくてはならない」みたいな話は設計中は難しい。屋根の形とか、壁の配置とか、床材の選定とか、それぞれの原理はあるんだけど、それらを統括するものを先立って掲げることはできない。

渡邉――それだと出来上がったものがちぐはぐになりそうだけど、違うんですか。

山田――そう。だから私もあまり自信を持って言えないんですけど、自分自身の倫理観がある程度定まっていれば、良い悪いの根源的な判断は一個人として責任を持っているので、ちぐはぐにはならない。 この場所にはこういう何かがいいんだという個人的な価値観はあるんですよ。でもそれをコンセプトとして形をもつのはどうかなと思う。

近内――コンセプトという言葉に公共性(public)や客観性といったニュアンスが込められているのかもしれません。なぜここが丸なのか、計画のコンセプトがこうだからという説明をするためにそれは必要とされるけど、山田さんという建築家にとっては「私的感覚としてはここは丸なんです」、それ以上の理由は言えない。

山田――単純に、屋根の形を決める時、本当は丸がいいのに、全体のコンセプトから三角を選択するというのがイヤなんです。

ポリフォニーと「一(いち)なる眼差し」の共存

渡邉――今回の展覧会のタイトルが「パラレル・チューンズ」で、いろんな音が同時に奏でられる状態を指していると思うのですが、一つのコンセプトで語りえないというのは、パラレル・チューンズの概念に近いように思います。目的や機能に還元できないそれぞれの個の判断がある、つまり複数の視点が折り重なるイメージがある。でも一方で山田さんは「私の倫理観によってジャッジできる」と、突然、神のようなことも言う。どうしてこれが両立しうるのか。

近内――山田さんは色々な他者と会話を行なっていて、微視的に見るとポリフォニックだけど、巨視的に見るとすごく「一なる眼差し」を感じて、僕はそれは矛盾ではないと思う。我々の身体は、そういうことができるんですよ。この展覧会からは、そういうことがわかってくる感じがあります。

山田――個を突き詰めて奥へ行けば行くほど、そこには万人が共有する宇宙がある。そういう感じです。

渡邉――従来的な意味でのコンセプトにあたるのが、山田さんの場合、コラージュのドローイングなのかもしれない。「daita2019」でこれを見せた途端に、施主とも目指すべきものが共有できたという話 をギャラリートークでしていましたね。他の建築家が言葉で示すコンセプトを、山田さんは抽象絵画で示そうとしているのでしょうか。

山田――そういうことはあるかもしれない。ただ、ドローイングをつくる時も最初は目指すべきゴールは決まっていないことが多い。「daita2019」は自分の家でもあって、建築家としての自分と、そこに住まわなきゃいけない自分とが分離してくる。建築家として構築すると同時に、あんな本棚が欲しいとか、これぐらいのキッチンが欲しいとか、カーテンはこうしようとか、そういうことがふわっと感覚的に表れて、それらを統合していかなければならなくなる。それで建築空間としては、建築家としての自分が断面図の線を引いて、その上に施主である自分が好きなものをベタベタと貼っていったんですよね。最初の作品で、構築だけからは建築をつくれなかった。自分の家だからそうなったんだけど、そのうちそういうことは自分の家に限らず、どんな建築でもそうだなと考えるようになりました。

渡邉――あらかじめ複数の自分というか、複数のキャラクターが存在していて、一番の根底に建築家がいるというわけでもなく、順不同に出現する。

近内――そう、序列がない気がします。ある時、急に別の眼差しの人が出てきて、声がワッと大きくなるみたいな感じ。

山田――「コンセプトはこうです」と言った途端に、嘘っぽいなと思ってしまう自分がいるんです。でもコンセプトを掲げなきゃいけない瞬間もあって、特に公共建築のように関わる人が多い場合は、コンセプトがないとみんな動いてくれない。その場合は、こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、仮置きで掲げておく。それをいつの間にかふわっと変えるみたいなことはあるんですけれども。

渡邉――その話はリアリティがあります。僕もホテルの計画に携わることがあるんですけど、やはりコンセプトは要るんですよ。でも途中で変えたくなる。何年にもわたって続くプロジェクトだと時代の変化もあるし、協力者が増えたときに調整したほうがスムーズなこともある。 コンセプトが拠り所でありながら、その拠り所自体が進化することを妨げないというのは、すごく大事なことですね。これからAIがデザインを行うようになると、価値の番人・個人としてのデザイナーとしての役割や責任が、より重要になっていくと思います。

渡邉康太郎氏

近内――ひとりのクリエイターがいて、その人が正しい何かに裏打ちされたものであるという安心感というのは確かに要る気はしますね。

山田――でも建築をどうつくるかというのは、個人の判断というより、時代が決めている面も大きい。教育とか環境とか、それぞれの建築家が見聞きしたものによってしかつくれないという感じもあります。だから歴史を振り返れば、ローマ建築、ゴシック建築、ルネサンス建築というように時代ごとにスタイルが決まっていく。

近内――書籍『パラレル・チューンズ』に載っていた、霊長類学者の山極壽一さんとの対談は面白かったですね。そこでは歴史というより霊長類の進化はこういうもので、居住空間というのは人間が人間になる前からのプロセスとして、いかにつくられるようになったかが語られています。それは歴史に影響を受けて、価値観を変えながら建築がつくられていったという見方とは対極なんだけど、進化生物学が明らかにしていることは、我々が大前提とすべきファクトとしてある。頭や理性という根拠ではなく、むしろ動物としての身体性に基盤があるという、その絶対性に僕は興味を惹かれました。

山田――建築は人間のためにつくるものだけど、人間とはどういうものかという捉え方は、ゴシックの時代とモダニズムの時代では全然違う。今の人間像はどういうものかが自分の中でわからないなと思って山極さんに訊いてみたら、意外とはっきりした答えが返ってきました。

近内――山田さんの建築には、空間ごとの摂理を感じさせる力があると思っています。「この屋根はこうじゃなきゃいけない」と感知する。見た人もそれを受け取る。でもそれは別の箇所のデザインとぶつかることもあって、脳内でポリフォニーが起こる。どういうふうに落としどころを考えるかというのが、アーキテクトとしての腕の見せ所みたいな感覚なのかもしれません。

近内悠太氏

渡邉――ポリフォニーを論じたのがソ連の思想家のミハイル・バフチンで、バフチンを西欧に紹介したのがフランスを拠点とした批評家のジュリア・クリステヴァ。彼女はあらゆるテキストは他のテクストからの引用のモザイクであり、テクストはすべてテクスト同士の関係性の中で成り立っていると言った──これを「インターテクスチュアリティ(間テクスト性)」と呼びます。そしてその関連でフランスの思想家ロラン・バルトは、作者は絶対的ではなく読者に地位を譲る、作者は死んだと宣言した。この“作者の死“という考え方が、山田紗子の建築を捉えるときにとても重要になってくるんじゃないかと思います。山田さんがいうところのポリフォニーは、コラージュのドローイングに象徴されるように、いろんな人がその空間で垣間見るかもしれない未来の風景がコラージュされている。いろんな人の視点によるいろんな時間が重なって見える。 それはときに施主の家族の視点であり、ときに自分自身の視点である。ここには絶対的な作者はいなくて、山田紗子自身も読者の1人でしかない。読者の1人がたまたまつくることに介在していくというような形で、建築が立ち上がってくる。だから読者の側として別にコンセプトはいらなくて、楽しく住まえればいいし、住んだ後にあの家はこういうふうだったよねと発見されればいいという、そんな位置づけなのではないか。

山田――うん、そういうことなのかもしれないです。みんながつくる人になりうる。

ともに編んでいくものとしてのコンテクスト

渡邉――僕がプロデュースした本屋「とつとつと」では、お客さんが書いた手書きの言葉が本と同列に並べています。本屋は従来、情報発信のヒエラルキーで一番上位にいる著者からシャワーのように情報をもらうだけの場所だけど、そうではない逆の矢印もあっていいだろうと、お客さんからのボトムアップの声も拾い、攪拌していく場としてつくりました。イッセイミヤケと行った「FLORIOGRAPHY」のプロジェクトでは、ブランドが完成品を送るのではなくて受け手が手紙に一筆書き入れたところで物が完成するということをやっています。そのように、僕は未完成なものをつくって、読者に完成させてもらうということを常に望んでいます。

山田――それが渡邉くんが唱えるコンテクストデザインということでしょうか。

渡邉――文脈を読み解くっていう意味での受動的なコンテクストではなくて、ラテン語の原義にある、ともに編み上げるという、能動的に働きかける意味でのコンテクストです。今のコンテクストに、そういう意味はもうほとんど残ってないけど。

山田――建築においてコンテクストはとても重要な言葉ですが、ともに編むって実はリアルな気がします。コンテクストはゆるぎない前提や背景とされるけど、そのプロジェクトが抱えてる課題はこちら側から見てるものなので、私がどう捉えるかによって変わってしまう。実在はするんだけどその在りようは1つではない。ともに編んでいかないと、私たちのクリエイションには引き込めない。コンテクストは自分とは関係ない、あっちから来るものという理解だったけど、でもそれを捉えているのは自分だから、結局は自分との噛み合いによってコンテクストは自分のプロジェクトの中で立ち現れてくる。

山田紗子氏

渡邉――そういうことなんだ。実にアナーキーで、目を見開かされます。面白い。

近内――コンテクストは、絶対的な与件として用意されてるものではないと。

山田――自分の理解力が高くないので、コンテクストが100個あっても、そのすべてを捉えることはそもそもできないです。その中から自分が捉えた時点で、自分も何かに編み込まれてしまっているという感じがあるなと、単純に思いました。コンテクストは建築を考える時に、やはり頼りにしています。でも「あいつが言ったからこうなった」というのも無責任ですよね。コンテクストは外側にあるのではなくて、自分も一緒にそこに噛み合っていくようなもの、そういうふうに考えるといいのかなと思いました。

開催日:2026年4月22日(水)
会場:TOTOギャラリー・間4F
編集:磯 達雄(Office Bunga)

ギャラリートーク「parallel dialogues パラレル・ダイアローグス」イベントレポート2

第2回「これからの建築について」

平田晃久(建築家)×山田紗子

山田――何か相談したいことがあるたびに、平田さんに連絡しています。今回の展覧会のタイトル「パラレル・チューンズ」も、悩みに悩んだ挙句に平田さんに訊いて、「それいいんじゃない?」と言われて決まりました。

平田――それほどお役に立てているとは思いませんが……。初めて山田さんと会ったのは、東京都美術館の「Arts&Life――生きるための家」展(2012年)だったと思います。若い人を対象としたコンペが行われて、その審査員を小嶋一浩さん、西沢立衛さん、藤本壮介さんと一緒に務めました。審査会で僕が苦虫を噛み潰したみたいな顔をしていたらしいんだけど、山田さんを1等に押し上げるにはどうやったら他の審査員を説得できるかなと考えていたからで、それくらいあの案はよかった。でき上がったインスタレーションも、展示としての住宅だからフィクションなんだけど、身体性を強く感じさせるものになっていました。今回の展覧会もそれに通じるところがあるように思います。

山田――「daita2019」ができた時にも見に来ていただきました。

平田――今までにありそうでなかった感じの住宅で、これはおもしろいと思って、僕が教えている京都大学に非常勤講師として来てもらうことにしました。その時のレクチャーで「miyazaki」のドローイングが紹介されたんですが、チラッと見せてすぐ消しちゃうんですね。「何これ?」と気になりました。竣工してから賞の審査で現地を訪れたら、クライアントがグラフィックデザイナーで、色とりどりの家具を持っているのですが、それだけが目立ってくるのではなくて、建築の構造的な要素と絶妙に均衡しながら存在している。そういう状態が生まれていて、これはまた突き抜けたものができたなと思いました。

miyazaki Tokyo, 2022 © Rumi Ando

山田――ありがとうございます。

平田――出展者のメッセージに「調和を目指すシンフォニーではなく、和音も不協和音も同時に響く、ポリフォニーとして世界を描きたい」と書かれていましたよね。それにはとても共感するところがあります。空間の中で一つの焦点が結ばれるのではなく、こっちを見るとこっちの世界があり、あっちを見るとあっちの世界があり、それに全方位囲まれた森の中のような建築をつくってみたいと考えたんですね。「桝屋本店」(2006年)では、壁を三角形にカットして、45度振った配置にすることで、森の中のような状態をつくろうと試みましたが、山田さんがやっているのは、さらにすごい。森の中でいろんな生き物がうごめいているかのような感じ。

山田――平田さんは早くから自然や生物のイメージを建築に取り入れようとされていました。私もそれに大きく影響を受けています。

歩き回って世界を把握する

山田――私は今、新花巻図書館の設計を、昭和設計・tデ・山田紗子建築設計事務所共同企業体として進めています。住宅の設計では、柱や階段と家具が、それほど違わないスケールなので、一緒くたに扱うようなこともできました。でも図書館のような規模の建築になると、構造の存在感が大きいので、どうしていいか悩んでしまいます。平田さんは建築の構造について、どういうふうにとらえていますか。

平田――僕がその下で働いていた伊東豊雄さんや、その師である菊竹清訓さんは、エンジニアリングの対象としての構造と、建築を統合するシステムとしての構造を重ね合わせることで、印象的な空間をつくっていました。 この二人に限らず、丹下健三さんや他のメタボリストたちの建築も、そういうものだったと言えるでしょう。こうした建築のつくり方は、モダニズム以降の流れの中で最も明快で、だから世界から注目されたと思います。
 僕も伊東さんのせんだいメディアテークのコンペ案を見て、衝撃を受けました。構造のテクノロジーと建築の形式とが一体になっていたからです。それで伊東さんの事務所へ入ったわけですけれども、事務所を辞める頃には、そういう建築の完結性に対して、何か違う取り組み方をしたくなって、無重力の中で成立するような、自由な建築をやってみようと思いました。山田さんの建築は、構造形式と建築形式を重ねずに、それをずらすことを実践していて、それも自分には想像できないやり方でやっていると感じています。
 以前に山田さんが、オーストラリアのアボリジニが歌で世界を表現している話をしていましたね。

山田――ブルース・チャトウィンの本に書かれていたソングラインのことですね。オーストラリアの先住民族であるアボリジニには、もともと紙の地図がなくて、歌で場所を把握しているのだそうです。春になると羊に食べさせる草が生えるのはここだとか、夏に水を飲ませる泉はここだとか、彼らの生活を支える大事なポイントが広い大陸の中に潜在していて、あの山の方向にまず歩いて、この岩の前を左に曲がってというような順路が、歌として共有されている。歌は部族ごとに伝えられ、異なる部族が出会うと交換されることもあります。その話を聞いて、とてもおもしろいと思いました。平面図的な把握ではなく、歌という柔らかい言語によって、関係の連なりとして把握していく。 そういうことを、私たちも建築空間として立ち上げられないか。「miyazaki」の時は、そんなことを考えて設計しました。間仕切りがないワンルームに柱や階段がランドマークのように散在し、家族はそれぞれ遊牧民のように家の中を歩き回っています。子供はまだ小さいので、ご両親とは異なる低い目線で見ていて、ベッドの横にぬいぐるみがあり、その近くの床におもちゃがあるというように、独自の世界把握をしています。オーストラリアの大地に、山や岩や川を配置していくような気分で家をつくったわけです。

平田――最近、視覚に障害を持ったアーティストとワークショップをする機会がありました。その時に聞いたことが興味深かったんです。点字ブロックの上を延々と歩かされるのがとてもイヤだ、と。 なぜかというと、環境の把握がやりにくいから。例えば、少しやわらかい踏み心地の場所があった後で、コツコツと足音がする場所へ移ったりと、場所ごとに触感、音、匂いなど、その場で感じることがいろいろ違っていて、何度か歩いているうちに、頭の中にある種の地図みたいなものができてくるのだそうです。普通の地図は、鳥の目で見下ろした視点になるけれども、地上を歩いて得られる断片的な情報から、全体をつかんでいるわけです。

平田晃久氏

山田――私たちも設計する上で模型をつくりますが、あれだと全部見えてしまうんですよね。それは必要なことなんですが、一方で環境の把握や、そこで起こることを想像したりすることに関しては、模型だけではなかなか難しい。そこで平面のドローイングを使うんですけど、それをそのまま立体化して建築になるわけではないです。平面のドローイングから物理的な世界に戻すときには、大きな読み替えがまた必要で、だからこそ人が認識しているリアリティに近いのではないかと思います。

図書館で読書と空間の体験が結び付く

山田――平田さんは多くの図書館を設計してきましたよね。これまでに何件、設計されたのでしょうか?

平田―― 5件かな。でもそれらはみな他の機能との複合施設なので、図書館を設計しているという意識はあまりないです。図書館の専門家も、僕が設計した建物を図書館とみなしていないかもしれません。だから、図書館の専門家みたいに言われるのは、少しためらってしまう。

山田――新花巻図書館を設計する中で、いろいろ考えさせられることがあります。公共図書館の機能は知を蓄積することで、本をしっかりと保存していかなければならない。その一方で、市民が訪れて自由に利用できることも求められています。その2つが並走しているため、設計に戸惑う面もあるのですが、図書館のなかにいろいろな小さな世界があるということで、物理的な建築を超えていくところがあるのかなと思っています。例えば、宮沢賢治に関係する本が固まっているエリアが設定されているのですが、そこの棚から1冊取って、あちらの方が気持ちよさそうだからと移動して読み始めると、宮沢賢治の世界が建築の中で広がっていく。私たちは物理的な場所を設計することしかできませんが、図書館で起こる現象には、そういうやわらかさがあります。

平田――本を読むことは不思議ですよね。 本を開いて、その中に入っていく。 そうすると図書館では、席を並べて本を読んでいるのに、全く別の場所にいるみたいなことになる。そもそも著者のほとんどは既にこの世にはいない人たちで、自分が今生きている時代と行ったり来たりしている感覚もある。

山田――そういう体験ができる図書館という建築は、すごくおもしろいと感じます。

平田――図書館は記憶術とも関係しています。記憶術というのは、ギリシャやローマの時代からあるもので、弁論内容を順序よく思い出すために、建築を思い浮かべて、その空間に記憶と対応した印象的なイメージを置いていくというものです。 思い出す時は、頭の中の建築を訪れて、順序よく歩いていくと内容を思い出せるわけです。建築の空間が人間の考えを分類したり、整理したりするのに使われるということは、時代ごとに建築が変わっていくことで、人間の思考の型も変わっていくのかもしれない。だから、僕にとって図書館の設計は、単にかっこよくデザインするということではなくて、人間が物事を考える構造を更新することにつながっているんだと気が付いたんです。

山田――ものすごくおもしろい話です。本と記憶ということで言うと、一冊の本を手に取って、それをどこで読んだのか、読書と空間の体験が結び付いて自分の記憶になっていくのではないかとも思います。

平田――ものを考えるということと動き回ることが一致する、そういうことが図書館では起こっているのかもしれません。それは先ほど触れたソングラインとも通じています。

山田――建築や都市も、地図で認識しやすい空間と、そうではない空間があります。渋谷が割とそうだと思うんですけど、1階から入ったはずなのにいつの間にか3階だったみたいな不思議な体験が、実空間でも起こります。

平田――方向音痴になる都市というのはいいですよね。僕も方向音痴の傾向があるけど、地図で見たときに「こっちだ」という感覚がわかないということであって、道に迷うわけではない。太田市美術館・図書館(2016年)をつくった時も、平面図を見てほとんどの人はどうなっているかわからなかったけど、中を2時間くらいぐるぐる回ると、どこに何があるかはつかめるようになります。俯瞰的な視点で、統合された図が描けなくても、関係として全体像を組み立てることはできて、黙っていても身体が動く。そういう空間をつくりたいという意識は、すごくあります。

山田――図書館という施設は、一回行って終わりではないですよね。 建築見学でくる人は一回限りかもしれないけど、市民の利用者は何回もくるので、最初は迷うかもしれないけれども、2回、3回、4回と訪れることで、自分なりの空間認識が蓄積していって、それに読んだ本の記憶がつながっていく。あっちへ行ってみようと進んでいくと急に落ち着いた場所があって、そこに文学の書棚があるとか、天井が高くて明るいエリアに出たら自然科学の書棚が並んでいて、植物の栽培法の本に出会ったとか、そういうふうに身体の理解と本の世界が結びついていくとおもしろいと思っています。

山田紗子氏

平田―― 図書館には本の分類法というのもあります。標準的な十進分類法だけではなくて、最近ではいわゆるテーマ配架のやり方を採っている図書館も出てきていて、そのテーマに空間のあり方を寄り添わせるということも考えられるけど、テーマと空間が一対一で対応しているのも、それはそれでイヤかもしれないとも思う。

山田――確かにそういう面もあるかもしれないですね。建築の設計者がそれを決めるべきかという問題もあります。

平田――図書館の運営責任者が異動で変わることもしばしばありますからね。

山田――そうですね。ただ十進分類法と空間性をそこまでぴったりとくっつけなくても、何か空間をゆるく把握できるような立体構造が図書館の中につくれるような気もします。文学の本が多くなってはみ出してしまうようだったらこっちに少し伸ばしていこうとか、そういうことが許容できる空間。むしろそういうことで広がりが生まれていく空間をつくりたいです。

平田――囲われたスペースが並んでいるのではなく、森の中にいるような感じで、はっきりとした領域がなくて、何となくの広がりがあって、歩いていくとまた別の広がりがある。広がり同士はどこかで重なり合っていたりする。そういう感じの図書館ができたらおもしろいでしょうね。

開催日:2026年4月28日(火)
会場:TOTOギャラリー・間4F
編集:磯 達雄(Office Bunga)

執筆者

磯達雄(Tatsuo Iso)

編集者・1988年名古屋大学卒業。1988~1999年日経アーキテクチュア編集部勤務後2000年独立。2002年~20年3月フリックスタジオ共同主宰。20年4月から宮沢洋とOffice Bungaを共同主宰。
https://bunganet.tokyo/